風邪ひいた話

 数年ぶりに風邪をひいた。今年の風邪はたちが悪いと言っていたのは誰だったか。退勤のタイムカードを押すときにはもう「あっヤバいかも」とは思っていて、電車を降りてエキチカのドラッグストアに寄るころには「これはもうダメだ」になっていた。スポドリと、風邪薬と、栄養ドリンクと、レトルトのおかゆと、えーとあと何がいるっけ。熱が上がってきてなんにも分からなくなってきた。あとは一人暮らしの備蓄でなんとかなるだろうと、希望的観測を抱えてレジを通る。
 帰宅、手洗い、即体温計をしたところ、表示された数値は三十七度九分だった。ふげえ、ほぼ三十八度じゃん。しかも二十年ばかりの人生経験から予想するに、これからもうちょっと上がりそうな感じがある。曲がりなりにも、なんと、一応、私にも彼氏というものが存在し、驚くべきことに、珍しくも、明日はデートの予定があった。リモコンで暖房の調整をしながら、反対の手で『風邪ひいた ごめん 明日むり』とだけメッセージを送ってスマホを放る。加湿器は、ええい頭痛くて無理、もういいや。枕元にペットボトルの水を置いてるから気休めにはなるでしょう。適当な部屋着に着替えて布団に潜り込む。本当に珍しく、帝統がデートの約束なんかしてくれたのに、勿体ないことしたな。あーあ。


 体の節々が痛くて目を覚ます。頭も重くて汗はじっとり気持ち悪い。これは本格的にだめだなと思う。カーテンの向こうの外は薄明るかった。いつも起きるよりちょっと早いくらいだろう。仕事は元々休みだったから連絡の手間が無いのはよかった。しかし休みの日に体調を崩して寝ているとなると、それはそれで損をした気分で複雑だ。スポドリ飲みたい、と手を伸ばそうとしたら自分のものではない手がベッドの上にあってぎょっとする。布団を寄せて見てみると、ぼさぼさの頭が腕を枕にベッドに寄りかかって眠っていた。真冬にそんな薄いコートだけで寒くない? と言いたくなる見慣れたモッズコートの男は、間違いなく恋人の帝統である。

「……んあ?……あっお前、起きたのかよ! 風邪ひいたって見てビビってよぉ。熱は……、うわ、高そうだな」

 起き抜けから非常に元気な男だ。声のボリュームに抗議する気力もなくて、大きな手のひらが汗の滲んだ額をまさぐるのに任せる。いつもはカイロ替わりにするくらい代謝のいい帝統の手のひらが今日はじんわり気持ちいいから、まだ熱は高いんだと思う。根無し草を体現したかのようなこの男は、宿が無い日も私に連絡をするより公園のベンチを選んだりするので、付き合ってしばらくしてから合鍵を半ば無理矢理に押し付けた。それでも滅多に活用されることなんてなかったのに、こういう日には使ってくれるからズルいんだよな。

「なんか食うか? アイスあるぜ。あとゼリーとか」
「ううん、今いい……。まだ早いし、スポドリだけ飲んでもうちょっと寝る……」
「そっか。よしよし、寝てろ」

 ぐーっとペットボトルの三分の一ほどを飲み干してまたベッドに潜る。多分あやしてくれているんだろうけど、布団の上からぼすぼす撫でる手つきが強くて笑ってしまいそうになる。起きたときは久しぶりの高熱にうんざりしていたのに、帝統がいると分かっただけで気分が上がってくるんだから私ってやつは現金だ。

「デートだめになってごめんね。来てくれてありがと」
「病人がなーに言ってんだよ。気にすんなって」
「寝てる間に帰んないでね」
「おー。起きるまでいてやるから」
「んん」

 思いのほか弱っているらしく、「帰んないで」なんて甘えた台詞が驚くくらいにすんなり出てきた。帝統も同じように思ったのか、前髪を撫でる指先はさっきよりずっと優しい。嬉しさと火照りと体のだるさが全部いっぺんに来て、ぐるぐるとうずまきに飲み込まれるみたいにそのまま眠りの中に引きずりこまれた。


 次に起きたときには、窓の外はすっかり明るくなっていた。カーテンが半分開いている。帝統の姿は見えない代わりに、洗面所の方でなにやら音がしていた。ちょっと楽になったかなと思いながら体温を測定してみると、数値は三十七度五分を示した。ピークは去ったと思いたい。
 スマホをぽちぽちいじりながらスポドリをちびちび飲む。そうしている間に、袖とズボンの裾を大きく捲った帝統がこちらに戻ってきた。

「お、起きてんじゃん。飯食えそう? 俺腹減っちまった」
「ん、ありがとー。薬飲みたいしちょっと食べようかな。なにある?」
「あーっと……。冷凍のうどんとカップスープに、アイスだろ。あとゼリーとヨーグルト」
「すごい、いっぱいある」
「乱数と幻太郎に風邪ひいたときに食うモン聞いたら種類いっぱい持ってけって言われてよ。俺病気しねえから分かんなくてさあ」

 ふふ、病気しなさそう。後ろで笑ったのがバレたのか、電子ケトルに水を入れる帝統が「なんだよ」とふてくされた声を出す。たまごとほうれん草のカップスープが美味しそうだったからそれをお願いした。たまごって風邪のときにいいとも聞くし。「あいよ、スープな」自分の分らしいスーパーのお弁当を電子レンジに突っ込んだ帝統がケトルからお湯を注ぐ。うちの狭いキッチンで帝統がちょこちょこ動いてるのを見るのはなんだか変な感じだ。

「帝統ー。あっちでなにしてたの」
「あっち?」

 あっち、と洗面所の方を指差す。帝統が私の家で好き勝手に振る舞うのはもう慣れたものだけれど、大抵はこのワンルームでゴロゴロしている。洗面所に長くこもるのは珍しかった。シャワーを浴びていたにしては髪は乾いている。

「あー。風呂掃除」
「風呂掃除!? 珍しい」
「オマエ寝てる間めちゃくちゃ汗かいてたからな。熱下がったらキレーな風呂に入ってさっぱりしたいだろって思ってよ」

 あっ、今、すごくきゅんとした。嬉しくてむずがゆくて、なんだか泣きそう。ベッドの上でもじもじとする私に気付いた帝統がニヤッと笑う。

「病み上がりなんだし一緒に入ってやってもいいぜ」
「うわ台無し。やだ。すぐ調子に乗るところがダメ」
「ハイ」

 電子レンジが鳴って、弁当とスープの温かい匂いがする。今日はいっぱい甘やかしてもらったから、熱が下がったらお風呂くらい一緒に入ってあげても、まあいいかな。


2022/02/06 初公開
webオンリーの無配だったもの。風呂の日の話だったはずがあんまり関係なくなったやつ