夢野にフラれる話

 彼氏にフラれた。
 金曜の夜、帰宅した私がポストをあらためると、マンションやらデリバリーやらのいらないチラシに混じって、上等そうな和紙の封筒が投函されていた。それは宛名に私の名前が書かれているだけで、切手も消印も差出人の名前も一切不足している代物だったけれど、恋人である夢野幻太郎はいかにもこういうイタズラを好みそうな男だった。ははあん。
 この上品な筆致は奴のものに違いないと結論付けて無警戒に開けてしまう。『〆』と書かれているくせに糊付けはされていなかった。中にはこれまた上等そうな一筆箋が一枚だけ入っている。末尾のサインは私の予想通りに幻太郎のものだったが、書かれている内容はちっとも笑えなかった。

『さようなら。もう会うことはできません。一方的な別れをお許しください。あなたにはきっと他にいい人が現れることでしょう。それが私よりも素晴らしい人なのかは分かりませんが。 夢野幻太郎』

 全文三回しっかり目で追って、心臓の音をやけに大きく感じるようになってから、ようやくスマホを手に取った。履歴からすぐに幻太郎の名前を選択する。やけにコールが長くて、出ない気じゃなかろうなと思ったところで音声ガイダンスに繋がった。『おかけになった番号は現在使用されておりません』あいつめ!! 未練がましくもう一度コールボタンを押しながら、さっき帰ってきたばかりのエントランスを慌ただしく後にする。目的地はもちろん、幻太郎の家だ。

 結論を言うと、何度かけても通話が繋がることはなかったし、幻太郎に会うことはできなかった。幻太郎の家は明かりも灯らずしんと静まり返っていて、この野郎、居留守か? とほとんど乗り込む覚悟を決めて中を覗き込んで愕然とした。カーテンが無くなっている! 暗くてはっきりとは分からないが、よくよく見てみるとカーテン以外の家具もすっかり無くなっている気がするし、玄関先にあったはずの細々した幻太郎の私物がどこにも見当たらない。まるっきり人の気配がなくなった家屋に、さすがに私も諦めざるを得なかった。
 しかし、そこまですることがあるか? これじゃあほとんど夜逃げじゃないか。私と別れる為だけにここまでしたのなら、本当によっぽど私に嫌気がさしたんだろう。ほかになにか事情があってこんなことをする羽目になったのだとしても、せめて私にだけはちゃんと話してほしかった。昨日まではちっとも問題のない二人だとばかり認識していたものだから、存外にショックが大きいような気がする。喧嘩したときなんて、あんな男いない方がせいせいするとさえ思っていたはずなのに。それどころか、一人で歩いてみるとどんどん幻太郎のことばかり考えてしまって、自分で考えていたよりももっとずっとあの男のことが好きだったんだと分かり、打ちのめされてしまう。だってもう、最後の別れを最後だと認識させてくれる隙さえなく、幻太郎は私の前から消えてしまったのだ。
 びしゃびしゃに泣きたくなって、帰り道にあるコンビニでしこたまお酒を買い込んで、サブスクの映画を三本見た。評判のはずの映画は全然私の好みじゃなくて余計に落ち込んだけれど、大量のアルコールはたいして酒に強くない私にはよく効いて、そのままソファで寝落ちした。日付が変わって数時間が経ってからのことだった。



 インターフォンの音でぼんやり目が覚める。お腹の上に落ちていたスマホを見ると、もうほとんど夕方になっていた。我ながらよく寝たなと思うけれど、まだ意識ははっきりとしない。今日は休みだし、たまにはこんな日も許されるだろう。なんといっても私は昨日、盛大に失恋した後なのだ。
 けれど、ソファで寝たせいの体の痛みを受け止めているうちにもチャイムは止む気配がない。来客の予定はないし、今は頼んでいる荷物もないはずだけれど、しつこい人間もいたものだ。まだ昨日のアルコールが口に残っている気がする。喉も乾いていることだし、水を飲むついでにインターフォンの電源を切ってやろう。せいぜい無駄に体力を消費するがいい……と意地の悪い気持ちで画面をのぞき込んだ、その瞬間、それまでの全てがすっ飛んで、私は玄関へと不格好に急いだ。

「げっ、幻太郎」
「はて、どなたとお間違えでしょうか。自分は本日近所に越してきた者で、■■■■■■と申します。騒がしくしたお詫びとこれからのご挨拶をお持ちしました。つまらないものですが」

 そう言って差し出された包みは、多分蕎麦とか洗剤とか油とか、そういうものだろう。最近ではあまり見られなくなった引越しの挨拶をする知らない名前を名乗ったその男は、服装こそいつもとは違うものの、それでも絶対に見間違いようのない顔をしていた。水を飲み損ねたものだから昨日のアルコールがまだ喉に張り付いて、声が出なくなってしまった。男が情けなく笑う。

「……きっと他にいい人が現れるって、ちゃんと言ってたでしょ」

 うるさい。ばか。ばか。あんな手紙なんて知ったことか。頭の奥からツンと熱くなる。

「ああ、どうしてでしょうか。あなたとは初めて会った気がしません。運命とでも言うべきものを感じます。自己紹介をして一からすべて話しますので、よければお部屋に上がっても?」
「…………一から、全部話してくれるなら」
「ええ、ええ、話しましょう。……その前に」
「なんですか」
「抱きしめてもいいですか? 我慢できなくなってきました」
「いやです。私、初めて会った人にすぐ抱きしめさせるようなタイプではないので」
「……わかりました。そういう女性、俺は好きですよ。早く上がりましょう」


2021/03/05 初公開
全部終わったあとのif話。性格が悪い夢野