初めての夜

 夕飯を食べ終えてゴロゴロとしている最中のたわむれにキスをしたまではいつも通りだったのに、彼女がゆったりと縋りつくようにもたれかかってきたものだから、これはいつもと違うなということに気が付いてしまった。
 みずみずしくやわらかな唇が俺のそれを食む。ちゅっと二人にしか聞こえない音を立ててやがて離れて、桜桃の色のそれが「幻太郎さん」俺の名を呼ぶ。今そんな声で俺の名を紡がないでくれ。懇願するような気持ちでもう一度唇を重ねたら、彼女がおもむろに首に手を回してきた。ああ、失敗した。
 しばし固まってしまったが、なんとか自分を取り戻して長い口づけをほとんど無理矢理終わらせる。回された腕もやや強引に手首を掴んで「お手上げ」のポーズを取らせた。

「待っ……て、ください」

 ただでさえ潤んでいた彼女の瞳に不安が宿る。違う。そんな顔をさせたいんじゃない。

「今そういうことをしてしまうのは簡単ですが……、一度越えてしまった線はどう願っても戻れないものです。線の向こうが当たり前になってしまう前に、今だけもう少しこのやきもきした関係を楽しませてください。それに、あなたとの初めての夜は一度きりでしょう」

 指先をゆるく絡ませる。彼女が嫌で拒んだのではないと伝わっていますように。

「ちゃんとそれにふさわしいものを用意しますから……、ね、男から誘わせてくれてもいいでしょう? ……簡単に抱きたくないんです、大事にしたいんだ、大事にさせてください」

 ぽっと頬を染めた彼女が胸に飛び込んできて、俺も安堵の息をつく。背中をそっと撫であって、いつもの通り布団で身を寄せ合って眠った。なんと麗しき恋人たちであろうか。



「ば~~~~~~~っかじゃないだろか~~~~~~~~~~~~~」

 一人、誰もいない居間で座布団を枕に呟く。馬鹿じゃないだろうか。俺ってやつはどうして土壇場でああにも口が回ってしまうんだろう。職業柄それに助けられているところもあるけども。
 彼女を大事にしたいのは嘘偽りなく本当の気持ちだ。しかし、あのとき正直に言ってしまえばもう彼女の口内をめちゃめちゃに蹂躙してやりたかった。彼女の体を余すところなくすべて暴いてしまいたかった。
 それをできなかったのはひとえに俺に自信がないせいだ。だって、いや最近では珍しくもないだろうけども、その、女性の立場から見ると、この歳で女性との経験がないって、どうなのだろうか。
 彼女は心優しい女性なので、まさかそのことをあげつらって笑うようなことはないだろうが、「初めてなんだ」なんて察されてしまうのも正直嫌だ。彼女の前では常に余裕のある男でいたい。嘘の一つも交えつつ、彼女の三歩先をいつでも優しくリードしてやりたい。

「臆病者の見栄っ張りめ……」

 そんな俺の自尊心の結果があの彼女の不安げな顔だ。最後はいつものように微笑んでくれていたが、あの不安を作り出したのは紛れもなく俺自身だ。それを思うとあのときの己を何遍でも引っぱたいてやりたい衝動に駆られるものの、今の記憶を持った状態であの場に戻れるとしてもあの場ではやっぱり無理だと思ってしまうから始末が悪い。

「しかも自分で死ぬほどハードル上げてどうするんでしょ」

 自分に問いかけてみても「ど~~するんでしょうね~~~~~~~」が脳内をぐるぐる回るばかりでなにも浮かばず嫌になる。開けっ放しの歌舞伎揚げの袋に手を突っ込んでみたものの中身は空だった。どうやら上の空のうちに食べきってしまったらしい。もうなんか今日は全部駄目だ。

 付き合って三か月、俺と彼女の初めての夜は、まだ来ない。


2019/08/12 初公開
お題をいただいて書いた話。ありがとうございました!