ミスアンダースタンディング・ダンシング 11

 二郎くんが追いかけてきていると足音でわかる。荷物がばたばた揺れて走りづらい。放課後とはいえまだ校内に人は残っている。私と一緒にいるところを見られて、二郎くんに迷惑をかけたくない。息が上がるのも涙がこぼれそうになるのも全部無視して、遮二無二走り続ける。
 とはいえ運動不足の女子高生の体力なんてあっという間に尽きてしまう。階段を上り人気の少ない特別教室棟へやってきたところで、後ろから腕を掴まれた。

「待てって……! ここなら人少ねえし話できんだろ」

 そう言われて、私がここまで来れたのは彼が捕まえずに逃がしてくれていたからだと理解した。こうして捕まってしまったからには、どうあっても二郎くんと話をしなければ解放してはもらえないだろう。二郎くんの息は全然乱れていない。その声にはどこか焦燥感が滲んでいる気がした。

「……その、不安、っつーか……、嫌な思いさせたよな。ごめん」
「いえ……」

 この先を聞く覚悟なんてちっともできていない。誰もいない教室の前で二郎くんと向かい合う。まだ二の腕のあたりを掴んでいる彼の手にはゆるい力しか込められていない。それなのに、まるで心臓ごと握られているような気分だった。

「告白はされたけど、ちゃんと断ったから。彼女がいて、その子のことが、すっ……、好きだから、他の人は絶対考えらんないって。こういうのも出来ればやめてほしいって、ちゃんと言ったから」
「えっ」
「あっ、〇〇の名前は出してねえよ!」

 思わず顔を上げた私を見て、二郎くんが慌てて付け加える。私が気にしている部分はそこじゃなくて、えっ、今、二郎くんはなんて言った? 恐れていた言葉がこなかった安堵より、強い衝撃が予想もしていなかった方向からやって来て、混乱で全部真っ白になる。耳から入ってきた言葉を、頭がうまく処理できない。

「じ、ろうくんって、私のこと、好きなんですか……?」
「あぁ!? 当たり前だろ!?」

 二郎くんが怒っているみたいに眉を吊り上げて声を上げる。この二ヵ月過ごしてきて、多分、初めて二郎くんと正面でこんなに見つめ合った。夏の日差しはまだ高く、昼間の冷房が残った廊下には比較的ぬるい空気が漂っている。彼の顔が赤いのは夕日や暑さのせいじゃないらしかった。色違いの瞳が射抜くように私を見ている。私の顔も、きっと赤い。声を落として、だけど私にははっきり聞こえる音量で、彼は続ける。

「好きじゃなきゃ、付き合ってほしいなんて言わねーよ……」

 言ってない。もうハッキリとは覚えていないけれど、絶対あのときそんなこと言ってなかったと思う。少なくとも命令形ではあったはず。だから私も断れなくって、それでこんな現状に至っている訳で……。
 そう思う自分はいるけれど、そんなものは脳内のほんの片隅のちっぽけな部分だけだ。本来冷静に考えるべき脳みその大部分は、二郎くんが私のことを好きと言っている、というセンセーショナルな事実のせいでめちゃくちゃになっている。「そう、ですか……」一度冷静になりたくて声を出してみたけれどなんの解決にもならなかった。ひどくか細いそれは、二郎くんに届いたかどうかすら怪しい。熱そのものがじわじわと体から噴き出してもうなにも分からない。二郎くんがすぐそばにいる、腕を掴まれている、熱い、そんな少しの事態で私の体は全部いっぱいになってしまった。もうとっくの昔に顔を上げていられなくなっていて、二郎くんの二つめだか三つめだかのボタンにぼんやり視線を合わせている。

「……な、キス、していい?」
「へェっ!?」

 突然の言葉に思わず素っ頓狂な声が出る。私はもう完全にオーバーヒートしていて、きっとこのままされたらなにも抵抗できない。

「手ェ繋いだりとか、デートとか、そういうのもいいけど。キスとか、も……、してえって思うよ。〇〇のこと、好きだから」

 知らない。こんなの知らない。私の知らない二郎くんだ。握られていた腕とは反対側の肩に二郎くんの手が置かれて、彼との距離がさらに縮まる。あっ、キス、されてしまう。えっ!? わー!? あー!? 私の脳内はそんな意味のない音しか発さなくなってしまった。そのままぎゅっと強く目を瞑る。
 ぐ、っと肩を握る手に少し力が入って数瞬、おでこのちょっと上、前髪の生え際あたりになにかが押し当てられた感触があった。やわらかいのか、そうでないのかすらよく分からないくらいにあっという間の出来事だった。そろりと目を開けると二郎くんのシャツの襟が目の前にあった。無意識のうちに呼吸を止めていたらしい。息を吸い込むのと同時に、彼はゆっくり離れていった。

「……次は、ほんとに口にするから。そのつもりでいろよな」

 囁かれるように言われて、反射的に頷いてしまう。全然そのつもりでいれはしないだろうけども。のぼせたのか、頭が痛くなってきたような気がする。どうしようもないほどに心臓が激しく脈を打っている。なんなんだ、この状況。

「……図書室行こうとしてたんだよな。悪い。待ってていい?」
「や、あの、ひ、人がいるから……。用事すませたらすぐ帰るので……。だい、じょうぶ、です……」
「……そっか。わかった。気ィつけてな。またメッセージするわ」

 二郎くんの声ってこんなに優しかったっけ。耳の奥まで染み入るようで、心地よさを覚えてしまう自分に自分でうろたえる。二郎くんの視線を背中に感じながら図書室へよろよろと向かい、奥からちょっと手前の誰もいない席に突っ伏して、閉館時間までそのまま少しも動けなかった。


2023/08/24 初公開